角田吉男

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角田吉男(つのだ よしお、昭和7年生まれ)は、日本のヤクザ。指定暴力団稲川会四代目会長。五代目京葉七熊一家総長。初代角田組組長。
角田吉男

略歴
 角田吉男は、名門老舗組織横須賀一家出身で、同一家内に角田組を興して活躍した。博徒としてヤクザ人生を歩んできたいわゆる金筋博徒親分である。
 後に二代目稲川会会長となる五代目横須賀一家石井隆匡総長のもとで厳しい修業を積み、持ち前の素質を発揮し頭角を現すようになる。稲川裕紘三代目も石井総長のもとで厳しい修業を積んでおり、稲川会の三代目と四代目は同じ釜の飯を食って修業をした間柄だったのである。その後に実力が認められ、千葉県船橋市を中心に勢力を張る京葉七熊一家の五代目を襲名したのである。
 角田は石井二代目、稲川三代目から全幅の信頼を寄せられていたと言われ、二代目稲川会において、理事長補佐に抜擢されるなど出世していくことになる。三代目稲川会ではナンバー2である理事長を13年間に渡り務めた。しかし、着実に出世街道を歩んでいた角田であったが、突如不幸が訪れる。
 2005年5月29日、稲川裕紘三代目が急逝してしまったのである。この不運に臆することなく角田は先頭に立ち稲川会を支えていくことになる。自らは特別顧問に就き、理事長に浅井信吾六代目一ノ瀬一家総長、本部長に三代目の実子である稲川英希二代目稲川一家総長を就かせ、会運営に尽力した。稲川三代目の葬儀が終わった段階で執行部の話し合いにより1年間は喪に服すことになった。この後稲川会は、横浜派、川崎派、熱海派と分裂状態となる。
 角田はこの時点で事の成り行きを静観していたとされ、自らは高齢を理由に四代目には意欲がなかったと言われる。しかし、川崎派の筆頭格である清田次郎二代目山川一家総長の度重なる説得に応じ、決意を新にすることになったのである。角田の出現により横浜派の代表格である杉浦昌宏杉浦一家総長は、舎弟分である浅井信吾六代目一ノ瀬一家総長を担ぐ事を諦め、角田支持を打ち出したと言われる。この時点で稲川会は2派分裂状態となり、角田派、稲川英希支持派と別にそれぞれ定例会を開催していた。この後、2派で何度も話し合いが持たれたが結局、決着はつかないままに2006年7月19日を迎えることになる。 
 2006年7月19日、横浜市都筑区の二代目山川一家池田組本部事務所で角田吉男の四代目襲名式を、熱海市咲見町の稲川会本家で稲川英希の五代目襲名式が同時に施されるという事態に。しかし、稲川会のカリスマ的存在である稲川聖城総裁が、孫である稲川英希の襲名式に参加せず、角田の式に出席したことで事態は急変することになる。翌日に角田吉男と稲j川英希による会談が行われた。そこで角田は稲川英希に「若、まだ早すぎます。あなたが当代になれば稲川会は笑いものになってしまう。総裁も同じ考えです。ここは降りてください」と説得したとされる。それに対して稲川英希は「分かりました。でも一つ条件として、俺についた者達を拾って四代目体制で下に回さないことを条件に降ります」と条件を打ち出し、これに角田は了承し事態は収拾したのである。これで、角田吉男率いる新生稲川会が極道界の荒波の中に船出したのである。角田は稲川会において磐石な体制を築き活躍していた。
 2010年2月23日、東京都文京区の病院で膵臓癌の為病死。 


  • 最終更新:2010-07-30 21:03:32

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