稲葉地一家

十代目稲葉地一家(いなばじいっか)は愛知県名古屋市中村区大門町5-5-3に本部を置き、愛知県名古屋市中村区羽衣町39に本家を置く暴力団で、六代目山口組の三次団体。
<弘|道>

略歴
1879年(明治12年)、稲葉地一家の祖でもある日比津善七こと富田善七が死亡し、筆頭子分の村上甚之助が跡目を継承した。この頃、稲葉地一家の勢力は名古屋一帯にまで広がった。甚之助が愛知郡中村大字稲葉地の出身であったことより稲葉地一家を名乗る様になる。舎弟に水野三之助、子分に今枝藤三郎、十二番孫三郎、新川常こと宮崎常吉らがいた。
1890年(明治23年)、甚之助が死亡し今津藤三郎が三代目を継承。
1917年(大正6年)、藤三郎が隠退しイサバヤ政こと今枝正五郎を跡目に指名したが、力不足であったため富田鍋次郎と共同で跡目を預かることとなった。政五郎は旧郡部一帯、鍋次郎は旧市部一帯を取り仕切ったが、その後、鍋次郎が旅に出た為、政五郎が実権を掌握した。
1983年(昭和58年)6月18日、名古屋のスナックで、中京浅野会系組員と瀬戸一家侠神会岩本組組員がカラオケの順番をめぐって喧嘩をした。これをきっかけにして中京浅野会瀬戸一家侠神会岩本組との間で抗争が発生し、数次のカチコミで組員4人が負傷した。中京抗争の幕開けでもある。この抗争に対して、稲葉地一家六代目総裁・伊藤信雄平野一家総裁代行・佐藤安高が仲介に乗り出した。
1983年(昭和58年)7月中旬に手打ちが成立したのだが、岩本組はこの裁定に不満で、新たに愚連隊「岩本組」を名乗って抵抗した。この年代から中京地域はどの地域でも組織間の抗争につぐ抗争の幕開けでもあり、
同年、東陽町事件で懲役13年の刑に服した司忍(後の六代目山口組組長)が出所し、実に8年の月日を要して中京地域和平に手腕を発揮させ一本化を遂行させた。
中京抗争の終結後の1985年(昭和60年)前後、瀬戸一家平野屋一家運命共同会導友会とともに愛知県下の独立暴力団の親睦会である中京五社会を結成する。
1991年(平成3年)、名古屋抗争が起こり、中京五社会加盟団体が相次いで五代目山口組弘道会へ加入し、稲葉地一家弘道会の傘下となった。

◆稲葉地一家系譜
初 代 - 村上甚之助
二代目 - 今津藤三郎
三代目 - 今枝政五郎
四代目 - 高塚徳松
五代目 - 中村真人
六代目 - 伊藤信男
七代目 - 鬼木賢緒
八代目 - 池田憲一
九代目 - 中村英昭
十代目 - 松山猛

◆十代目稲葉地一家組織図
総 裁 - 松山猛(三代目弘道会若頭補佐)
若 頭 - 林達彦
本部長 - 岡輝智伊藤忠八代目岡組組長)
若頭補佐 - 山口茂(七代目高村会会長)
若頭補佐 - 立花繁樹立花組組長)
若頭補佐 - 里中真人(二代目永島組組長)
若頭補佐 - 芝田禎富蔵七代目芝田組組長)
若頭補佐 - 高橋順也
事務局長 - 山本正之小十八代目山本組組長)
若 中 - 山之内猛

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  • 最終更新:2018-07-02 14:39:39

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