磧上義光

磧上義光(せきがみ よしみつ)は 、日本の侠客。住吉一家四代目総長。港会二代目会長・元上萬一家貸元・磧上会会長。
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略歴
1962年(昭和37年)、住吉一家三代目総長阿倍重作が引退。
跡目として上萬一家貸元・磧上会会長であった磧上義光住吉一家四代目に指名、
磧上は四代目を継承し港会二代目会長に就いた。
その後、磧上義光は、港会を「住吉会」と改称した。
1963年(昭和38年)12月、住吉会は、
児玉誉士夫の提唱する関東会に参加した。
1964年(昭和39年)3月、警察庁が住吉会を広域10大暴力団に指定。
他に対象となったのは山口組本多会柳川組錦政会松葉会日本国粋会東声会義人党北星会であった。
同年6月には、関東会定例総会において、住吉会会長・磧上義光が関東会の理事長に就任。警察の第一次頂上作戦により磧上義光が逮捕された事から、翌年の解散に繋がった。
広域暴力団に指定された10団体のうち最初のトップの逮捕であった。
1965年(昭和40年)1月、関東会は解散、同年5月に住吉会も解散した。
1967年(昭和42年)、磧上義光は、中里一家総長の堀政夫を、
住吉一家五代目に継承させた。
その後、堀政夫住吉連合」を結成し代表に就任。
1972年(昭和47年)には、稲川会國粹会東亜会交和会義人党松葉会二率会双愛会と共に、
博徒系親睦団体・関東二十日会を結成した。

ヤクザ戦争と警察と企業:60年代以降
60年の安保闘争においては、左翼運動が暴力的争乱に発展してしまった為、
鶴政会会長の稲川角二住吉一家四代目総長の磧上義光
的屋組織の首領であった尾津喜之助らは、
右翼の児玉を介し政府自民党の依頼に応じ、数万人の動員を確保した。
しかし、関東勢では中央政府に協力していた頃、山口組田岡一雄は、
ひたすら組織拡大に努め、関西・山陰・九州へと進出していった。
これに対して、本多会錦政会鶴政会を改称)、住吉一家松葉会日本国粋会極東会なども組織拡大を始め、
地元ヤクザの防衛や分裂も絡んで、国内の約半分以上の地域、九州、北陸、中部、山陽、北海道では抗争となった。

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  • 最終更新:2018-07-08 23:10:40

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