矢嶋長次

矢嶋長次(やじま ちょうじ、昭和11年1月8日生 )は兵庫県明石市出身。

沿革
昭和11年(1936年)1月8日、兵庫県明石市で生まれた。父は明石市の博徒・矢嶋清。
昭和30年(1955年)、森川組森川鹿次組長の娘(森川鹿次の妻・春子の連れ子)・栄子と結婚。森川鹿次の家の向かいに新居を構え、矢嶋組を結成した。

昭和35年(1960年)7月15日、三代目山口組若中となった。
昭和38年(1963年)、森川鹿次の若衆・伊藤日出男と、伊藤の兄弟分・二代目原田組平原春義組長が共同経営していた、バー「マンタール」の銭勘定で揉めた。平原の刺客が伊藤を刺殺した。この報復として伊藤の舎弟・末崎康雄らが平原を射殺した。原田組初代・原田定直は、森川鹿次の兄弟分だった。末崎康雄は松山市に拠点を置く郷田会清水組を脱退、若衆1人を連れて、矢嶋組に移籍していた。矢嶋長次原田組を訪ね、原田定直と話し合い、抗争を回避した。原田組矢嶋組の傘下となった。

昭和39年(1964年)6月7日午前10時、第1次松山抗争が勃発した。
詳細は「第1次松山抗争」を参照

山口組若頭地道行雄は、森川鹿次に「矢嶋長次が戻って来るまで、今治に直系組長3人を常駐させ留守を預かりたい、弁護士費用や差し入れ代も全て山口組が負担する」と提案した。森川鹿次はこの提案を丁重に断った。結局、矢嶋長次不在の間は、森川鹿次が今治を守っていくことになった。
警察の取調べが終わった矢嶋組組員と郷田会組員は、松山拘置所に送られた。拘置所には、松山の博徒・黒田新太郎がいた。黒田新太郎の弟・黒田善太郎は、森川の兄弟分だった。黒田新太郎の仲裁で矢嶋と郷田は五分の手打ちをした。森川鹿次は岡山の弁護士に依頼し、矢嶋の保釈申請を提出した。高松高裁は矢嶋の保釈を決定した。
昭和43年(1968年)、矢嶋長次は懲役7年の実刑判決を受け福島刑務所に服役した。福島刑務所で三代目共政会山田久会長と知り合った。
昭和47年(1972年)秋、福島刑務所から出所。

昭和55年(1980年)3月、竹中正久は、矢嶋長次長谷一雄稲川会林喜一郎副会長、忠政会大森忠明会長、松正会山本真喜夫会長らを招待し、竹中組若頭補佐・大西康雄宅などで、2回に渡ってサイ本引き賭博を開いた。両日で賭け金3、4億円が動いた。
昭和56年(1981年)2月20日、森川鹿次は肺癌で死去。享年78。

同年7月23日、田岡一雄は、急性心不全により死去した。

同年10月29日、昭和55年(1980年)3月に開いた賭博により、竹中正久竹中武杉本明政矢嶋長次長谷一雄林喜一郎大森忠明山本真喜夫らが兵庫県警に逮捕された。警察はテラ銭を1億5000万円と推定した。
昭和57年(1982年)2月4日、大阪市生野区の今里病院で、山本健一が、肝硬変に腎不全を併発して死去した。これをきっかけに跡目問題が浮上する。矢嶋長次は、四代目に竹中正久を推す一派に属した。

詳細は「山口組四代目跡目問題」を参照

昭和57年(1982年)6月日、竹中正久山口組四代目就任に反対する直系組長は、山口組の代紋を組事務所から外した。この段階で山口組参加者は42人で総組員数4690人、一和会参加者は34人で総組員数6021人だった。
同年6月13日、山本広加茂田重政佐々木道雄らは、山本広を会長に据えて、「一和会」を結成した。加茂田重政は、副会長兼理事長に就任した。加茂田重政は弟の神竜会加茂田俊治一和会理事長補佐に据え、弟の政勇会加茂田勲武を、一和会常任理事に据えた。

同年6月21日、田岡邸大広間で竹中正久は、23人の舎弟、46人の若中と、盃事を行なった。

昭和59年(1984年)8月5日、山一抗争が勃発した。

詳細は「山一抗争」を参照

昭和63年(1988年)6月ごろ、山口組五代目跡目問題が浮上した。

詳細は「山口組五代目跡目問題」を参照

同年5月27日、渡辺芳則は、最高顧問を新設し、中西一男を据えた。渡辺芳則は、英組英五郎組長、倉本組倉本広文組長、黒誠会前田和男会長、弘道会司忍会長、芳菱会滝澤孝総裁を、若頭補佐に据えた。渡辺芳則は、益田(啓)組組長益田啓助を舎弟頭に据えた。渡辺芳則は、章友会石田章六会長、大石組大石誉夫組長、西脇組西脇和美組長を舎弟頭補佐に据えた。嘉陽宗輝桂木政夫(後に舎弟頭補佐)、木村茂夫は舎弟となった。岸本才三は舎弟となり、山口組総本部長となった。二代目吉川組野上哲男組長は、山口組総本部副本部長となった。益田組益田佳於組長、小西一家小西音松総長、伊豆組伊豆健児組長は、顧問に就任した。新人事には、宅見勝の意向が強く反映された。

同年6月4日、岸本才三西脇和美佐藤邦彦が、竹中武宅を訪ね、「竹中正久の位牌と仏壇を引き取ってもらいたい」と依頼。竹中武竹中正久の位牌と仏壇を受け取った。

同年6月5日、山口組定例会で、竹中武矢嶋長次牛尾洋二森田唯友紀の脱退が発表された。

同年8月、矢嶋長次は引退し、山田忠利が二代目矢嶋組を継承した。山田忠利は、山口組に復帰した。

  • 最終更新:2018-09-22 16:42:48

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