林喜一郎

林喜一郎(はやしきいちろう、1920年1月生)は、元稲川会会長補佐。林一家初代総長。

◆略歴
1920年1月、林喜一郎は神奈川県横浜市中区住吉町で生まれた。10人兄弟の長男だった。その後、林喜一郎は横浜市南区蒔田で育った。

1932年、林喜一郎は小学校を卒業した後、横浜市鶴見区の鉄筋屋に奉公に出された。

その後、林喜一郎は横浜市中区伊勢佐木町で喧嘩を繰り返した。

1937年、林喜一郎は鉄筋屋を辞め、愚連隊になった。林喜一郎の男兄弟8人のうち、7人が愚連隊となった。

1939年、林喜一郎は横浜市南区南太田の吉水金吾と知り合い、兄弟分となった。

同年末、林喜一郎は恐喝罪で小田原少年刑務所に入った。

1940年、林喜一郎は徴兵検査第一乙種に合格し、兵役で満州に行った。

その後、林喜一郎の3番目の弟・林三郎は、子分40人~50人を率いるようになり、愚連隊を組織した。

1943年、林喜一郎は華中に転戦した。

1945年の終戦時、林喜一郎は上海で八路軍に捕らえられ、その後捕虜生活を送った。

1947年、林喜一郎は日本に帰った。このとき林三郎は、横須賀刑務所に服役中だった。

その後、林三郎が獄死。林喜一郎は、林三郎の愚連隊を傘下に収めた。

その後、伊勢佐木町で「一六縁日」が開催されたとき、林喜一郎は、的屋と喧嘩になった。林喜一郎は縁日を潰すために、地蔵に体当たりをして撥ね飛ばした。

その後、横浜市野毛の的屋・日野盛蔵は、二代目網島一家(通称鶴岡一家)・鶴岡政治郎総長に、林喜一郎の「一六縁日」での行為を報告し、注意するように頼んだ。鶴岡政次郎は、林喜一郎に「一六縁日」での行為を咎めたが、林喜一郎は、鶴岡政次郎の注意を無視した。

その後、林喜一郎は、吉水金吾の紹介で、出口辰夫と知り合い、兄弟分となった。このころ、出口辰夫、吉水金吾、井上喜人(出口辰夫の兄弟分。後の鶴政会幹部。)、林喜一郎は「横浜愚連隊四天王」と呼ばれるようになった。

1948年)、出口辰夫と井上喜人は、稲川角二の本拠だった神奈川県湯河原の「島田旅館」を訪ね、稲川角二に会った。稲川は井上喜人に出所祝いを渡した。井上喜人は稲川からの出所祝いに感激し、出口辰夫は「出口辰夫と井上喜人を稲川の舎弟にして欲しい」と頼んだが、稲川は「兄弟分も舎弟も持つ気はない」と返答した。出口辰夫と井上喜人は、稲川の若衆にしてくれるように頼んだ。稲川は、出口辰夫と井上喜人を若衆とした。出口辰夫と井上喜人の舎弟や子分(田中敬や佐藤義雄)で、出口辰夫の舎弟・堀越辰雄以外の者100数十人全員が稲川の傘下に入った。

1951年12月初旬、吉水金吾と林喜一郎の抗争事件が勃発した。吉水と林の抗争事件をきっかけに、稲川は、横浜の愚連隊の首領・吉水金吾と林喜一郎を、稲川の若衆にした。

1955年1月30日、出口辰夫は病気で死去した。享年34。出典は、『愚連隊伝説』(洋泉社、1999年、ISBN 4-89691-408-2のP.183)。もしくは、1955年1月10日、出口辰夫は病気で死去した。享年33歳。出典は、大下英治『首領 昭和闇の支配者 三巻』(大和書房<だいわ書房>、2006年、ISBN 978-4-479-30027-4のP.165)。出口辰夫の死後、稲川角二は、出口辰夫の横須賀市の縄張りを、出口辰夫の舎弟・佐藤義雄に継がせた。出典は、大下英治『首領 昭和闇の支配者 三巻』(大和書房<だいわ書房>、2006年、ISBN 978-4-479-30027-4のP.172)。

1959年8月31日、ブルースカイ事件が勃発した。

1960年6月26日、伊豆市長岡の旅館2階の賭場で、稲川裕芳(後の稲川聖城)は、林一家・林喜一郎総長から「アイゼンハワー大統領来日のために、自民党の安保委員会が、財界から6億円近い金を集めた。児玉誉士夫が、財界から集められた6億円近い金を、掠め取ったらしい」と報告を受けた。

その後、稲川裕芳は、東京都世田谷区等々力の児玉誉士夫邸を訪ね、児玉誉士夫に、財界から集められた6億円近い金について訊ねた。児玉誉士夫は、稲川裕芳に「自分は自民党に貸しはあっても借りはない」と答えて、一喝した。稲川裕芳は、児玉誉士夫に反論できなかった。

稲川裕芳が児玉誉士夫に一喝された1週間後の夜、赤坂の料亭「中川」で、児玉誉士夫は、稲川裕芳に「自分と兄弟分にならないか」と提案した。稲川裕芳は、児玉誉士夫に、「兄弟分ではなく、心の親分になって欲しい」と返答した。児玉誉士夫は、稲川裕芳の実質的な親分(稲川裕芳の渡世上の親分は鶴岡政次郎)となった。

このころ、稲川組組員が3000人を超えていた。

1961年2月21日、池田勇人首相は、「暴力犯罪防止対策要綱」を閣議決定した。1964年10月10日から東京オリンピックの開催を控えており、治安強化を図る必要に迫られていたためだった。

1961年10月、岐阜県の博徒池田一家大幹部・坂東光弘が、鶴政会(後の稲川会)幹部・林喜一郎の傘下となり、稲川組岐阜支部長に就任した。

1962年3月、警察庁は、山口組本多会(会長は平田勝市。)、柳川組(組長は柳川次郎。本名は梁元錫。)、錦政会(後の稲川会)、松葉会(会長は藤田卯一郎。)の5団体を広域暴力団と指定し、25都道府県の県警に実態の把握を命じた。

1962年9月16日午後9時過ぎ、稲川組と芳浜会の抗争事件が勃発した。
1962年10月9日、甲府戦争が勃発した。
1962年12月14日、岐阜抗争が勃発した。

1963年3月、グランドパレス事件が勃発した。結果的に、児玉誉士夫の推し進めていた東亜同友会構想は頓挫し、田岡一雄と稲川裕芳の対立は決定的となった。

1963年夏の終わり、稲川組と東声会の対立事件が勃発した。これにより、稲川は井上喜人を破門とせずに堅気にさせた。井上の若衆・舎弟全員、稲川組に残った。
1963年10月16日、稲川は鶴政会を「錦政会」と改称し、政治結社として届け出た。児玉誉士夫、右翼活動家・三浦義一北星会岡村吾一会長、右翼活動家・小沼正吉田彦太郎らが錦政会顧問に就任した。

1964年1月、「暴力取締対策要綱」が作られた。

1964年2月初旬、警視庁が「組織暴力犯罪取締本部」を設置し、暴力団全国一斉取締り(第一次頂上作戦)を開始した。
1965年3月、錦政会と北星会が解散した。

その後、吉水金吾が服役中に渡世から引退することを宣言した。

1968年3月、稲川聖城は、1962年3月19日に行った総長賭博により、府中刑務所に収監された。

1971年12月下旬、稲川一家総長代行・林喜一郎と横須賀一家石井隆匡総長は、三代目山口組若頭山本健一に稲川聖城の刑務所からの出迎えの要請をして、了承されていた。

1972年1月、稲川は林喜一郎を府中刑務所に呼んだ。稲川は林喜一郎に「出所時には、稲川の妻・一二三だけの出迎えにするように」と指示した。

その後、林喜一郎は、山本健一らに「稲川聖城の出迎えは遠慮して欲しい」と伝えた。

1972年1月20日午前0時、稲川聖城は府中刑務所から出所した。

1972年1月24日、稲川聖城、林喜一郎、石井隆匡は、尼崎市の関西労災病院に入院中の田岡一雄を見舞った。

1972年1月27日、熱海市水口町の稲川聖城邸の大広間で、稲川聖城の放免祝いが行われた。

1972年1月28日、熱海市水口町の稲川聖城邸の大広間で、2日目の稲川聖城の放免祝いが行われた。
同日夜、稲川聖城は稲川一家幹部全員を熱海市水口町の稲川聖城邸の2階大広間に集めて、「稲川一家を稲川会に改称する」「稲川会の本部事務所を東京都に置く」と「稲川会の代紋を統一する」「稲川会の戒律三か条」を通達した。稲川会の戒律三か条は、「会内で揉め事を起こしてはいけない。揉め事を起こした者は破門」「麻薬・覚醒剤を扱った者は破門」「山口組と抗争を起こしてはならない」だった。稲川聖城は稲川会会長に就任した。稲川会理事長に、石井隆匡を据えた。稲川会会長補佐に林喜一郎を据えた。稲川会専務理事に趙春樹と富士市の木村信一を据えた。常任理事に、長谷川春治、森田祥生、和田永吉、山田時造、山川修身、田中敬、森泉人、大澤三金吾滝沢良治郎を据えた。、稲川会相談役に井上与一鈴木仙太郎山瀬惣十郎島田四郎を据えた。稲川聖城は、代貸クラス100人を理事に据えた。

1985年11月20日逝去。

この項目は書きかけ項目です。
役職や名称等、人事の変更などで必ずしも最新の情報とは限りません。加筆、訂正して下さる協力者を求めています。
※誹謗中傷や悪戯、あらし行為、売名行為、他サイトの宣伝などは厳禁とし、それらを行った者に関しては厳重な処罰の対象とし、悪質編集者リストへ一定期間掲載させて頂きます。


  • 最終更新:2017-06-02 00:07:50

このWIKIを編集するにはパスワード入力が必要です

認証パスワード