山一抗争

山一抗争


山一抗争(やまいちこうそう)は、昭和59年(1984年)8月5日から平成元年(1989年)3月30日にかけて山口組一和会の間に起こった暴力団抗争事件。317件の大小抗争が発生し、一和会側に死者17人、負傷者49人、山口組側に死者8人負傷者17人を出した。


略史
昭和56年(1981年)7月23日
 三代目・田岡一雄組長が心不全で死去

昭和57年(1982年)2月4日
 若頭・山本健一が肝臓疾患のため死去

同年6月
 若頭補佐・山本広山広組組長)が組長代行に就任 
 若頭補佐・竹中正久竹中組組長)が若頭に就任

昭和57年(1982年)9月15日

 山本広、直系組長会において多数決で山口組四代目の選出を提案、竹中正久支持派が反発
 田岡文子の説得により、山口組四代目選出を延期

昭和59年(1984年)6月5日
 竹中正久が、山口組直系組長会で四代目組長就任の挨拶
 山本広加茂田重政加茂田組組長)、佐々木道雄佐々木組組長)らが竹中正久の四代目就任に反対

同年6月13日
 山本広加茂田重政、佐々木道雄らが、山本広を会長に「一和会」を結成
 加茂田は、副会長兼理事長に就任

同年7月10日
 徳島県鳴門市のホテルで、山口組襲名式(後見人:稲川聖城稲川会会長、推薦人;堀政夫住吉会会長、図越利一会津小鉄会長)
 若頭・中山勝正豪友会会長)、舎弟頭・中西一男中西組組長)、筆頭若頭補佐兼本部長・岸本才三岸本組組長)が就任

同年8月5日
 串本町の賭場で、岸根敏春(山口組松山組岸根組組長)が、・潮崎進一和会坂井組串本支部若頭補佐)を刺殺
 この事件をきっかけに、山一抗争が勃発(一和会・6千人、山口組が5千人)

同年8月23日
 竹中正久が一和会への絶縁状を友誼団体に送付
 一和会勢力は3千人未満に縮小

同年
 札幌刑務所の病舎で、山口組一会野沢儀太郎会長(元柳川組幹部)は、誠友会石間春夫会長と面会した。野沢は敢えて石間に、山口組参加を切り出さなかった。

同年秋
 札幌刑務所の病舎で、山口組若頭補佐・渡辺芳則(後の五代目山口組組長)と山口組若頭補佐・桂木正夫と面会した。渡辺は、年明けの石間と四代目山口組・竹中正久組長と山口組若頭・中山勝正の面会の約束を取り付けた。

昭和60年(1985年)1月26日
 竹中正久は、中山勝正と山口組南組南力組長とともに、山広組組員・田辺豊記、同組組員・長尾直美、同組組員・立花和夫から銃撃
 南力は即死、中山勝正も4時間後に死亡、竹中は大阪警察病院に搬送され死亡

同年2月5日
 舎弟頭・中西一男が四代目山口組組長代行に、若頭補佐・渡辺芳則(山健組組長)が若頭に就任

同年1月28日
 石間春夫は、竹中正久の暗殺を聞き、山口組に加入することを決断
 石間は、私文書偽造により懲役4年の判決、宮城刑務所に収監

同年4月5日
 山口組定例会で、山口組本部長・岸本才三(山口組若頭補佐)が、直系組長85人(代理出席は18人)に対して、誠友会の舎弟待遇での山口組加入を発表

同年4月12日
 山口組弘道会内薗田組幹部らが、一和会水谷一家隅田組幹部2人を拉致

同年4月13日
 山口組弘道会内薗田組幹部らが、拉致した一和会水谷一家隅田組幹部2人を死傷させる

同年4月19日
 石間春夫は、札幌拘置所病院棟で、山口組組長代行・中西一男岸本才三、桂木正夫ら5人と面会
 石間は、北海道同行会の会規に「内地の広域組織は同行会には入れない」をいう条項があったため、北海道同行会からの脱会
 誠友会・川岸朝明会長は、石間の指示を受けて、誠友会の北海道同行会から脱会を伝えた。
 北海道同行会は、返答を保留

同年6月13日
 北海道同行会の誠友会を除いた臨時総会、誠友会の除名問題が議論

同年6月14日
 北海道同行会の臨時総会が、誠友会を加えた全役員で議論されたが、結論は出なかった。
 誠友会は、北海道同行会に残存

同年7月
 石間春夫は、四代目山口組舎弟となり、山口組に加入

同年10月27日
 鳥取県倉吉市のスナックで、山口組竹中組杉本組輝道会組員・山本尊章清山礼吉が、一和会幹事長補佐・赤坂進を射殺

昭和61年(1986年)1月21日
 竹中組大西組幹部ら2人が、一和会加茂田組小野会小野敏文会長を、小野の自宅で射殺

同年1月24日
 田岡文子が、肝硬変で死亡

同年2月24日
 別府市内のクラブで、二代目石井組石友会会員が、稲葉実を銃撃

同年2月
 稲川会などが抗争終結工作

同年8月6日
 別府市国際観光港前の国道で、稲葉一家組員が、徳弘喜一郎を拳銃で銃撃

同年5月21日
 大阪市ミナミの路上で、山口組竹中組二代目生島組幹部・北原智久と大宮真浩が、一和会副本部長・中川宣治を射殺

昭和62年(1987年)2月2日
 サイパン島バンザイ岬沖で、一和会常任顧問・白神英雄の射殺死体が発見

同年6月22日
 別府市緑ヶ丘町路上で、二代目石井組江口組組員が、宮脇組首竜会会長を拳銃で射殺

昭和63年(1988年)4月11日
 弘道会司道連合組員2人が、一和会加茂田組二代目花田組丹羽勝治組長を射殺

同年5月7日
 一和会副会長兼理事長の加茂田重政が自らの引退と加茂田組の解散を表明

同年5月14日
 神戸市東灘区で、竹中組安東会安東美樹会長らは、山本広宅を襲撃

同年5月21日
 一和会幹事長代行・松本勝美が引退し、松美会を解散

同年6月10日
 佐世保市の一和会理事長補佐・福野隆が、一和会から脱退

同年6月16日
 名古屋市の一和会常任幹事・中村清が引退し、中村組を解散

同年10月
 一和会最高顧問の中井啓一が一和会から脱退し、引退

同年10月5日
 一和会常任幹事・坂田鉄夫が一和会から脱退

平成元年(1989年)3月16日
 渡辺芳則は、大津市の会津小鉄会高山登久太郎会長宅で、山本広と会見
 山本は一和会解散と自身の引退を表明

同年3月30日
 山本広は、稲川裕紘に付き添われて山口組本家を訪れ、山本広は、中西一男渡辺芳則ら山口組執行部に、自身の引退と一和会解散を告げ竹中正久殺害を謝罪した。山本広竹中正久の仏壇と田岡一雄の仏壇に線香を手向けて合掌した。これで山一抗争は終結した。

  • 最終更新:2018-03-21 18:18:00

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