大阪戦争以降

同年7月26日深夜、大阪戦争が勃発した。

同年9月9日、警察庁は、大阪戦争を契機に第3次頂上作戦を開始した。

同年10月、山口組定例幹部会で、菅谷政雄の謹慎処分が決定した。

昭和51年(1976年)2月初め、山本健一大平一雄竹中正久小西音松益田佳於細田利明加茂田重政、京都市の山崎組山崎正組長、西宮市の桜井組桜井隆之組長らが、葬式の帰りに山口組本部に寄り、チンチロリン賭博を行なった。

同年3月、兵庫県警は「田岡一雄は、休眠状態の神戸芸能社から田岡に月給10万円支払っているように届け出て健康保険を出し、その保険を使って不正医療給付を受けた」として、田岡一雄が入院する関西労災病院や自宅を捜査した。

同日、兵庫県警は、田岡一雄の妻・フミ子を呼び、取調べを行った。

同月初旬、山本健一、大平一雄、竹中正久、小西音松、益田佳於、細田利明、加茂田重政、山崎正、桜井隆之らが再び山口組本部で、本引き賭博を行なった。細田利明が胴元を務め、テラ銭1500万円を得た。このうち、450万円が大平一雄に渡り、そのうちの225万円が山本健一に渡った。

同月3月20日、山本健一、大平一雄、竹中正久、小西音松、益田佳於、細田利明、加茂田重政、山崎正、桜井隆之らが再び山口組本部で、本引き賭博を行なった。竹中正久が胴元を務めた。加茂田重政の負けが通算3500万円になった。田岡一雄は、山口組本部で賭博が行なわれていることを知り、山本健一、竹中正久、大平一雄、小西音松を関西労災病院に呼び、厳重に注意した。

この頃川内弘は、菅谷政雄に本家の若衆への推薦を希望したが、推薦しなかった。

同年4月、山本健一小田秀臣ら幹部8人は資本金6千万円で、ビル管理を主たる業務とする「東洋信用実業」を設立し、役員となった。東洋信用実業は、「山口組会館」(後の四代目山口組本部)を建設した。また、それまで山口組幹部が田岡一雄の名代として使う慶弔の費用は、田岡一雄から出ていたが、山口組会費から出すようにした。また、山口組若頭補佐が山口組幹部名で出す慶弔の費用も、会費から出すようにした。

同月、田岡一雄は、竹中正久と湊芳治から、菅谷政雄の謹慎の解除を提案された。

同月、田岡一雄は、菅谷の謹慎を解くことを山本健一に指示した。菅谷は若頭補佐を解任され、筆頭若衆に降格となった。

同年6月28日、姫路警察署・藤田忠夫署長が、元丸三組組長・陳傳鋒からの収賄容疑で逮捕された。

同年7月、田岡一雄は、関西労災病院から退院し、自宅療養に入った。

同年12月、上原勇吉は、山口組若頭補佐・大平一雄から盃をもらい、山口組の傘下となった。これにより、山口組は沖縄戦争第4次沖縄抗争)に参加することになった。

昭和52年(1977年)1月24日、菅谷政雄は、川内弘を破門した。これを切っ掛けに、三国事件が勃発した。



同年4月15日、三国事件を受け山口組本部は菅谷政雄を絶縁した。

同年5月、田岡一雄は、二代目吉川組野上哲男(後の六代目山口組最高顧問)に盃を与えた。

同年6月1日、町井久之東亜相互企業が倒産した。

同年8月25日、長崎市の山健組松本組松本敏久組長の実弟が、地元暴力団に射殺された。

同年9月12日、松山市の加茂田組木村組木村阪喜組長)が、兵藤会などの地元暴力団と抗争を起こした。田岡一雄は、松山市に山口組組員数100人を集結させた。

同年9月25日、山口組組員が、ダンプカーで、松山市の兵藤会本部に突入した。

同年9月27日、警察庁長官・浅沼清太郎は、山口組壊滅作戦を指示した。

同年10月6日、松山市の料亭で、山口組と兵藤会などの松山市の暴力団が手打ちをした。

同年12月、田岡一雄は、加茂田重政細田利明正路組正路正雄組長、中山勝正を若頭補佐に据えた。

同年12月、田岡一雄は、平松組(組長は平松資夫)舎弟頭・石川尚に盃を与えた。

昭和53年(1978年)4月、田岡一雄は、玉地組玉地健治組長(後の六代目山口組舎弟)に盃を与えた。

同年6月、田岡一雄は、堀内組堀内伊佐美組長に盃を与えた。

同年7月28日、田岡一雄は、岐阜市の瀬古安会会長・安璋煥菊田組組長・菊田吉彦を除籍した。

同年8月8日、瀬古安会と菊田組傘下だった9人の組長が、山心会(会長は足立哲雄)を結成した。

同年、山本健一は、田岡一雄の了解を得て清水光重に断指を命じ、若頭補佐を解任した。

同年、田岡一雄は山本健一の推薦を受け、福井組若頭・宅見勝に盃を与え、田岡一雄の若衆にした。

その後、田岡一雄は、若頭代行を新設し、山本健一を療養させようと考えた。田岡一雄は、細田利明を呼び、山本健一が若頭代行新設に賛成かどうかを、確認して来るように命じた。

同年11月14日、細田利明と宅見勝は、東京都白山の山本健一のマンションを訪ねた。山本健一のマンションには、豪友会会長・中山勝正、尼崎市の真鍋組組長・真鍋展朗角定一家総長・木村茂夫がいた。山本健一は、若頭代行新設案への返事を保留した。

同日、大阪高等裁判所は山本健一の保釈取り消しを決定。同日、山本健一は、東京・白山のマンションで、大阪府警の捜査員に「住居制限違反」で拘束され、収監された。

同年11月22日、兵庫県警は、昭和51年(1978年)の山口組本部での賭博で、山本健一、竹中正久、大平一雄や細田利明ら14人を指名手配または逮捕した。竹中正久は、神戸刑務所から灘署に移管されて取り調べられた。本部長だった大平一雄が、全ての責任を引き受けた。大平一雄は執行猶予付きの判決となり、他の者は罰金刑となった。

昭和54年(1979年)2月、大平一雄、小西音松、細田利明、正路正雄を、若頭補佐から解任した。

同年2月、田岡一雄は、溝橋組組長・溝橋正夫を若頭補佐に据えた。

同年4月16日、田岡一雄は自宅で、三代目共政会会長・山田久侠道会会長・森田幸吉浅野組組長・浅野眞一、共政会相談役・門広と会った。この席で、山口組とそれぞれ関西二十日会に所属していた共政会、侠道会、浅野組との共存共栄路線が確認された。

同年6月9日、清水光重が死亡。

同年7月、田岡一雄は、白浜温泉で遊べるまでに、健康が回復した。

同年8月5日、山心会会長・足立哲雄、伊原組組長・伊原金一(本名尹炯騏)、川合組組長・川合康光(後の六代目山口組舎弟)ら9人を、山口組若中とした。山口組の直系組長は102人になった。

同年12月6日、谷口政雄酒梅組五代目襲名披露宴に出席した。

昭和55年(1980年)1月10日、姫路事件が発生した。関西二十日会との和平交渉を妨げた竹中正久の行動を支持した。

詳細は姫路事件を参照

同年4月21日、北海道北見市の奥州金子一家小林四代目・花田章は、奥州金子一家四代目の座を同門の者に譲り、加茂田重政の舎弟となった。これを切っ掛けにして、山口組[北海道同行会の抗争事件が勃発した。



昭和56年(1981年)3月6日、神戸地方検察庁は、第1次頂上作戦での神戸市さんちかタウン建設をめぐる恐喝で、田岡一雄に懲役4年を求刑した。

同年、山口組は593団体、構成員1万2893人となった。

同年3月、田岡一雄は、溝橋組若頭・勝野重信に盃を与え若衆とした。

同年5月、菅谷政雄が府中刑務所から出所。菅谷政雄は、すぐに心臓病で神戸市の病院に入院した。菅谷組舎弟頭・浅野二郎や菅谷組若頭補佐生島組組長・生島久治(通称サージ)が、竹中正久、加茂田重政、中山勝正と会い、「菅谷政雄を説得して、引退させる」と伝えた。

同年6月12日、神戸市の料亭で、田岡一雄は、竹中正久、加茂田重政とともに菅谷政雄と会った。菅谷政雄自身の口から、菅谷政雄がすでに堅気になった旨を聞き、菅谷政雄からの詫びを受け入れた。山口組が、解散後の菅谷組を吸収することになった。

同年7月23日午後7時31分、田岡一雄は、入院先の関西労災病院で、急性心不全により死去した。享年68。

同年10月25日午後1時50分、神戸市灘区篠原本町の田岡邸で、山口組組葬が行なわれた。喪主は、妻の田岡文子。葬儀執行委員長は、稲川会稲川聖城会長だった。服役中の山本健一が、副葬儀委員長だった。組葬には、ソビエト連邦のテレビ・ラジオやアメリカのボルチモア・サンなどの報道陣約300人が詰めかけた。機動隊約340人が、田岡邸を包囲し、警戒に当たった。参列者数は、兵庫県警の要請により、約1500人に絞られた。

山口組の運営は、山本健一の出所まで、山本広、小田秀臣、中西一男、竹中正久、益田芳夫、加茂田重政、中山勝正、溝橋正夫と、田岡文子で行なわれることになった。

  • 最終更新:2015-09-19 22:43:36

このWIKIを編集するにはパスワード入力が必要です

認証パスワード