侠道会
三代目侠道会(きょうどうかい)は広島県尾道市山波町3025-1に本部を置く日本の指定暴力団。
平成21年(2009年)現在で勢力範囲は6件に及び、構成員約190人、準構成員約300名。前身は高橋組。
歴史
高橋組
昭和20年(1945年)10月、高橋徳次郎は、広島県尾道市久保2丁目の新街の遊郭に、新居を建て、博打を始めた。その後、高橋徳次郎は、自宅に、「高橋興行部」の看板を掲げた。高橋徳次郎は、興行の仕事を義父・津川嘉太郎に任せ、自身は賭場の運営に専念した。このとき、高橋徳次郎の若衆は、横江利雄ら3人だった。その後、横江利雄は、かつて日立造船で一緒に働いていた森田幸吉を、高橋徳次郎に紹介した。森田幸吉は、高橋徳次郎から盃をもらい、高橋徳次郎の若衆となった。
昭和30年(1945年)12月、高橋徳次郎は、広島県県議会議員に当選した。
昭和42年(1967年)、波谷守之は、共政会樋上組・樋上実組長から、美能組(組長は美能幸三)・小原組との和解を依頼された。樋上実の提案は「美能幸三が山村辰雄への報復を止めるのならば、美能幸三を組長として、美能組・樋上組・小原組を統一する」というものだった。樋上実は、森田幸吉と合田一家・浜田一郎総長に自分の提案を示し、合意を得た。波谷守之は、美能組幹部・薮内威佐夫とともに、札幌刑務所に行き、美能幸三を説得した。1回目、2回目の説得では、美能幸三が納得しなかった。波谷守之は、3回目の説得で、美能幸三を説得した。山田久が、共政会関係者を説得し、樋上実の提案に合意させた。
同年12月、広島県警尾道警察署は、野球賭博容疑で、高橋徳次郎や高橋組主要幹部を逮捕した。
初代俠道会
昭和45年(1970年)、下関市の合田一家・合田幸一総長の提唱により反山口組同盟・関西二十日会が結成された。加盟組織は、合田一家、大阪市の松田組、神戸市の忠成会、姫路市の木下会、岡山市の浅野組、広島市の共政会、福岡市の工藤会など。
同年4月、森田幸吉は、高知県高知市に「俠道会高知支部」を設立した。
同年5月、森田幸吉は、愛媛県今治市に「俠道会今治支部」を設立した。
昭和47年(1972年)5月、兵庫県有馬温泉で、山田久と森田幸吉の手打ちが行われた。仲人は、大日本平和会・平田勝市会長がなった。手打ち式の後、波谷守之と山田久と森田幸吉は、兄弟分になることを約束した。
昭和54年(1979年)4月16日、三代目山口組・田岡一雄組長は、田岡一雄の自宅で、山田久、森田幸吉、浅野組・浅野眞一組長、共政会・門広相談役と会った。この席で、山口組と、それぞれ関西二十日会に所属していた共政会、侠道会、浅野組との共存共栄路線が確認された。
昭和63年(1988年)、西日本二十日会が結成された。関西二十日会とは違い、特に山口組を仮想的とするわけではなかった。西日本二十日会の加盟団体は、唐津市の西部連合、下関市の合田一家、広島市の共政会、尾道市の侠道会、笠岡市の浅野組、松山市の松山連合会、岡山市の木下会、徳島市の勝浦会、高松市の親和会、大阪市の波谷組だった。
二代俠道会
同年11月、森田幸吉が病死した。
平成2年(1990年)12月、森田和雄は、会の名称を「二代目俠道会」に改称した。
平成5年(1993年)3月4日、広島県公安委員会は、俠道会を指定暴力団に指定した。
三代目俠道会
歴代会長
初 代 - 森田幸吉
二代目 - 森田和雄
三代目 - 池澤 望(本名:渡邊 望)
最高幹部
会 長 - 池澤 望
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- 最終更新:2009-11-07 05:37:38






