人物・エピソード

・神戸港の船内荷役業や神戸芸能社などの正業を持っていたため、直系組長からの上納金は毎月数千円だった(六代目山口組の直系組長の上納金は毎月80万円~120万円)。このため、若衆を1人も持たない山老会(古参の舎弟グループ)でも、直参であり得た。

・強い暴力信奉者であり、「山口組は他の暴力団よりも強くなければならない」という信念を持っていた。暴力団抗争では、逮捕者の弁護士代、服役者の留守家族の生活費の面倒、抗争用の武器の調達費用など多額の経費がかかる。このため、経済的に見れば、暴力団抗争は割に合わない。しかし、田岡一雄は、暴力団抗争を繰り返すことにより、山口組を強い暴力団組織だと印象付けた。これにより、結果的にシノギが、他の暴力団組織よりも有利に働いていった。

・「山口組は親の手に負えない極道者をまとめて面倒を見ている。もし、山口組が解散したのならば、いったい誰が、これら極道者の面倒を見てくれるのか?」という持論を持っていた。

・興行師としての強引な手口も少なくなく、鶴田浩二襲撃事件以降、山口組の機嫌を損ねるとひどい目にあうという恐怖を芸能界興行界に定着させることになった。

・それまでばくちで生きていくのが一般的だったやくざの世界で、組員に賭け事の寺銭ではなく「正業」を持つことをすすめ、合法事業を営ませたことが発展の大きな理由である。中でも、組内の組織改革は、大きな改革であった。警察の取り締まりや景気の動向に左右されやすいヤクザ社会において、資金源の確立を絶対とした。このため、舎弟や組員の一部を「堅気」の法人団体の長として、一切の組員を持たせず渡世との交渉をさせなかった。こうして組の計画性と安定をもたらした点は その後の活動に大きな布石となった。その結果、1950年代から60年代にかけて傘下の団体が全国へ進出、各地で抗争事件を引き起こすなど、世間の恐怖と批判を招いた。

・昭和40年(1965年)ころから、山口組では、不法な事業に一層手を染める者がますます増えていった。

・神戸水上警察署の一日署長をした経験もあり、自伝によると警察との蜜月時代もあったとされる。青田昇の著書によれば田岡はプロ野球ファンであり戦後の混乱期は地回りの興行組織の機嫌を伺わなければ、試合が開催できずに嫌がらせを受けていたが、山口組の全国進出以後は野球は国民的娯楽だからとそのような慣習なしでも開催できるよう取り計らいをしたという。

・イギリス製の高級背広を着て、常にボディーガードの護衛を受けて、毎月3回理髪店に通った。
・700万円の防弾ガラス付きの黒いキャデラックを愛用した。 
・昭和57年(1982年)2月5日、神戸灘税務署は、田岡一雄の相続申告書を公表した。遺産総額は1億5340万円だった。
・ピラミッド型と呼ばれる山口組の組織を作った。田岡一雄は、直系の子分全員を、2次団体の組長として独立させた。さらに、2次団体の組長には、2次団体組長の子分を組長として、3次団体を持たせた。末端組織を取り込むには、都合の良い構造になっている。

  • 最終更新:2008-09-29 15:32:14

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